ブェト国にはイェスゲイ・バートルなる人物が君臨していたが、彼はバルゴ・ホローにある旧ブェト国の地で気候風土に恵まれた土地を選び、人々は土の建物と木の垣根を築いて集落をなして住み着いた。さらには、橋を作っては河を渡ってあちこち移動していた。
多くの部族は、物事に通じた勇者としてイェスゲイ・バートルを崇拝し、畏れかしこまっていた。人々はまるで蜜蜂のように付き従ってきたため、彼の勢力は次第に強大なものとなっていった。
ある日、イェスゲイ・バートルは軍陣を前にした小高い丘のアルスラン・ツァツァルに座して、ブェト国の十万の大軍を訓練させていると、突然、日の昇る方角から砂埃を巻き上げて、百騎以上もの兵が先頭の人物に率いられながら、飛ぶように疾走してくるのが見えた。
事態に気づいた将軍たちは、こちらに向かってくるのはきっとケレイト国の王であろうと告げた。たしかに、その旗には熊が描かれ、ウイグル国の文字で「ケレイト国の王」と書かれてあった。しかも旗の天辺には孔雀の羽が刺され、房飾りには豹の尾が縒ってあるのでそれと分かった。
そもそも、以前このケレイト国を支配していたバイルは、アルタン・ウルス(金国)を大国として迎合し、アルタン・ウルスからは北の国境地域のイフ・バイルとして王の称号を与えられていた。
バイルが亡くなった後、その長子トオリルが王位について権力を握ったが、自分の兄弟達を理に叶わぬやり方で幾人も斬り殺してしまった。
このため、トオリルの叔父であるジュラが憤慨し、トオリルを殺して王の位を奪い我が物にせんと軍隊を編成して攻め込んだ。トオリルは自らの軍を従えてガローンという場所でこれを迎え撃ったが、巧妙な作戦による攻勢であえなく惨敗し、トオリルは政権、官吏、臣民などをそっくり奪われ、わずかに手元に残った軍を率いてイェスゲイ・バートルに援軍を求めに来たのだった。
当時トオリルはケレイト国の王だったため赫王(へ・ワン)と呼ばれていた。赫王は陣の前にやってくると、離れたところから馬を下りて跪いたままでいざり寄り、軍が攻撃されたいきさつを涙ながらに語り、頭を下げて頼むのだった。
「かつてはバルダン・バートル王たる叔父が存命だった頃、その庇護の下に我がヘレイトは安泰でした。今となっては英雄であり慈悲深いあなた様だけが頼りなのです。どうか哀れなみなしごに情けをかけると思ってお助けください。ご自慢の軍隊を率いて、私を死ぬ目に遭わせた奴らに敵討ちをしてくださいませんか」と哀れなほど訴えては頭を下げ続けた。
イェスゲイ・バートルは慌てて天幕から降り、赫王を抱き起こすと答えた。「こうしたことを聞いては、放っておけない性分のこの私。弱き者をかばい、痛めつけられた者に代わってあだ討ちをするなど、幼いころから日常茶飯事のことでした。王様が敵軍に女子供をすべて奪い取られ、辛酸をなめられているとあっては、どうしてご支援せずにはいられましょう。どうか、憂いて心を痛めなされぬよう」
そしてにこやかに赫王をなぐさめて、ただちに大規模な宴席を設けて篤くもてなすと、精選した一万の軍隊と勇将を自ら率いて、火薬をしつらえて太鼓を打ち鳴らし、虎の尾を結わえた旗をなびかせてケレイト国を目指して出陣した。
ケレイト国に近づくとイェスゲイは赫王に向って「もしそなたの叔父ジュラが私の到来を聞き知れば、きっと恐れて守備に徹し、立てこもってしまうでしょう。そうなると、王様の女子供は敵の人質となってしまうのでやっかいです。だから、まず彼らの傍まで行って、おびえさせないように気をつけながら、怒らせて煽り立てていらしてください。私はこのガローン山の隙間に身を潜めています。不意打ちをかけて敵の隊列に割り入ってなだれ込めば、どうにか全滅させることができましょう」と言った。
赫王は(それを聞いて)とても喜び、引き連れていた百余の騎馬兵と共に疾走して、ジュラの宿営地の前までやってきた。そしてあの手この手で罵り、「ご自身の姪も同然である私の妻を辱た叔父よ。今度はご自分の母親を犯されるおつもりか」と侮蔑の言葉を浴びせた。
ジュラは、赫王が舞い戻ってきてはそのように罵っているというのを聞きつけると、肝が波打たんばかりに怒り狂い、ただちに鎧冑を身につけて矛を手にするや馬に跨り、その場に待機していた軍を率いて出陣した。
そして、大きな声で「命知らずの雛っ子め。死ぬ目に遭わせてくれよう」と叫ぶなり、隊列に割り入ってきた。両者はしばらく揉み合っていたが、赫王はまさか本当にジュラと一戦を交えたのではとてもかなわないので、すぐに刀を納めて逃げだした。
ジュラの軍隊はというと、ときの声を上げて後から迫り来る。赫王は、ガローン山まで逃げ込んだところで、兵士に命じて合図のラッパを鳴らさせた。そこで、待ち構えていたイェスゲイ・バートルは、山の隙間から五列編成の全軍を率いて、ジュラの軍隊を押し殺しつつなだれ込んできた。
赫王もアンドゥ将軍を引き連れて再び戦列に加わろうとしたが、ジュラの軍隊は真っ二つに分断され、しかも隊列の先頭から終わりまですべて敵に囲まれてしまって恐慌し、混乱をきたしていた。
逃げ惑っていたジュラは、突如として踵を返して再び戦列に加わらんとしていたが、イェスゲイ・バートルに出くわすと肝を冷やして言葉を失い、心臓は早鐘を打って手は震え、途端に戦意を失ってしまった。そこへ赫王も戻ってきて近くへ歩み寄ろうとしたところ、ジュラの軍隊は恐れをなしてすぐに四方へと散り散りに逃げてしまった。
しかるにイェスゲイ・バートルは家来に声高に命じ、ジュラを幾度も刺していたぶった。ジュラは痛がって手足を広げ、大声で唸り叫んで、乗っていた馬を支離滅裂に鞭打つと、命からがら逃げ出した。そして、もうケレイト国を治めることはできないと悟って身一つで逃げ出し、夏国へと亡命したのだった。
イェスゲイ・バートルはケレイト国の全ての民を平定し、戦利品は全てそっくり赫王に与えた。また彼の部族の中から、ホロガやアンドゥなどといった何人かの勇者や有力者を選び出して、赫王を補佐して政治を行うようにといって士官や将軍として任命した。さらに赫王には、ジュラの妻や子供をいじめすぎないようにと諭した。
こうしてイェスゲイ・バートルは、ケレイトの政治を建て直して安定させると、盛大な宴を催した。赫王は宴席でイェスゲイ・バートルの恩を思いおこし、目から涙を流しつつ、しゃくり上げてはむせび泣き、盟友の誓いを立てた。自分よりイェスゲイ・バートルが年下であっても、兄として敬いたいといってお辞儀をし、血の誓いを立てて宴を続けるのだった。
かくして、赫王がイェスゲイ・バートルの軍に対し褒賞を与えたのは言うまでもないことである。勝利をおさめた軍を率いて、イェスゲイ・バートルはブェト国へと戻ってきた。ところが、その道すがら、突如として斥候の者が飛ぶようにやってきて、「上様が留守にしている間にタタル部族の軍が攻め込んで、我が国西部のジュルヘン部族を攻撃し、物品や家畜を奪って、妻や子供たちを連行してしまいました」と告げた。イェスゲイ・バートルはこれを聞いて、雷のごとく激怒し、国に帰りつくなり軍馬を増強し、ただちにタタル部族を討たんと狼煙を上げ、山が崩れ河がうねるかの勢いで軍を出陣させた。
まさにちょうどその頃、イェスゲイ・バートルの妃のオルクヌウド部族のオへルン・ウジンは、聖なるチンギスを身ごもっていた。
(オヘルン・ウジンが)初めて身重になったときのこと。ある晩、皆が寝静まった幕舎の天井の穴から一筋の金色の星が射し込み、カマドの道具に当たって反射して、家中は白い光に満ち溢れた。そして、次第に一つに集まって銀の水のようにあふれ輝いたかと思うと、白馬に乗った人の姿に変わった。それは銀の鎧兜を身につけ、身の丈は9トホイ(訳注:モンゴルの伝統的な長さの単位)ほどで、5つに縒った美しい髭をはやし、月のような丸顔で星のような目をして、手には銀の柄のついた鋼の矛を持つ、金色の神の化身であった。
(その人は)母なるオヘルンがお休みになっている寝台へとまっすぐに歩み寄ると、オヘルンを慈しまれたので、驚いて眼を覚まされたものの、夢か現か定かでなくなった。このようにオヘルンは、太祖となる聖人を身ごもられたのだった。現在モンゴルでツァガーン・スルト・テンゲル(白力天)として崇められているのは、すなわちこの父なる神のことである。
イェスゲイ・バートルはすでに大軍を率いてタタル部族を平定し終え、ブェト国は平穏な状態にあった。もうすぐ四月になろうとするある日のこと、草原には緑の草々が生い茂り、山には花々が咲き、様々な雀が囀り、程よく穏やかな気候だった。オヘルン・ウジンは気晴らしに数人の侍女を連れ、オノン河の岸辺にあるデリグン・ボルタグ山に登って草花を眺め、雀のさえずり声を楽しんでおられた。まさに色とりどりの草花を見て楽しみながら進んでいくと、突然風に様々な草花の香りに混ざって、白檀のいい香りが香ってきて、五臓六腑に染み渡り、それと同時に陣痛が始まった。
オヘルンは、身ごもられたときのことをふと思い出し、数えてみるといつしか十ヶ月が過ぎ、出産の時期になっていた。出産は初めてのことだったが、陣痛の具合からして、幕舎まで戻るには間に合わないのが明らかだったので、慌てて身を隠すことのできる場所をお探しになった。オエルンがそこにたどり着かれるやいなや、聖なる太祖はお生まれになった。
空は雲ひとつなく晴れていたのだが、そのとき突然、一片の五色の雲が現れて上空を覆って漂い、まるで花の芯のように甘い香りの雨がぱらついた。デリグン・ボルタグ山の頂上からは、幾抱えほどもある太さの一条の白い光が昇ってきて、虹のごとく天にかかったまま、三日三晩消えなかったという。
これについては、ブェト国の人や各部族の人々皆が目にしただけでなく、南宋、金、遼、夏などの多くの国々でも目撃され、各国の天文観測によって、北方の空に真龍天子生誕の徴である白い光が現れたと朝廷に報告がなされている。壬午年の四月十六日午の刻のことである。
この壬午年に起こった出来事については、『資治通鑑綱目』、『史事通考』、『万年暦』などに記載されており、仔細に調べて日時を照合してみると、南宋の杭州に亡命した第十代皇帝宋高宗趙構の時代の紹興三十二年のことで、宋朝ではこの年の正月の元旦に日食が観測されている。
なお、この年は金朝の第五代皇帝世宗完顔雍の時代の大定二年に相当する。金国の先の皇帝完顔亮の死後、後を継いだ皇帝や大臣は彼の罪状を数え上げ、完顔亮を降格させて亮王と改めた。その当時、多くの国々では皆、北の空に現れた白い光を見て恐れをなしていた。この壬午年から、大清朝第十代皇帝穆宗の同治十年辛未年の今年(訳注:ホホ・ソダル執筆当時)まで、実に七百十年の歳月が流れようとしている。折しも、オヘルン・ウジンは19歳になられたばかりで、イェスゲイ・バートルが25歳であった年に、聖なる太祖はご生誕なされたのである。
そして、この日より丸三日間、オノン河の水は底のほうまでとても清く澄み、何尋もの深さを泳ぐ魚まで見通せた。というのも、聖なる太祖を沐浴させたボロル泉の水が流れ込んだからだった。オエルンは白草の茂ったところで太祖をお産みになられたのだが、臍の緒を切るための刀がなかったので、白草によって臍の緒を結わえ、侍女たちに命じてデリグン・ボルタグ山から鋭利な石を探させ、二つの石を使って臍の緒を断ち切った。母なるオヘルンは、生まれた我が子を見て慈悲の心を動かされ、はらはらと流れたその涙は、臍の緒と石や草の上に零れ落ちた。そしてオヘルンは、心からの祝福の気持ちを祝詞として奏上した。
ああ、山中で生まれた始めての我が子よ
草の上に落ち出でた我が宝貝よ
白草のように子孫が増えますように
皇帝の血筋は岩石のように堅固でありますように
このように祝詞を唱えたため、現在では聖なる太祖の子孫は百七旗にまで増え、皇族の位も代々続いてきたのである。
岩石を称えたのは、もともと北部モンゴルには岩山が非常に少なく、そうした岩石のある峰はデリグン・ボルタグという山にしかないからだ。この山は千里以上の長さの龍のような、遠くから見ると牛の脾臓(デリグウ)のようであるため、デリグン・ボルタグと名付けられていた。この何里もの長さをもつ龍のような岩壁の、宝石を宿す峰で太祖がお生まれになったことから、後に人々はオヨーギーン・ボルタグと呼ぶようになった。
この土地は、今となってはハルハ四旗のうちどのハルハ地域なのか明らかではなく、オノン河の付近だということしか分かっていない。もしデルグン・ボルタグという場所がオノン河の近くにあるならば間違いなくそうである。後世の学者たちが、もし北部モンゴルの出身者と話をする機会に恵まれ、正確な場所を知り得たならば、ぜひともこの書物に現在の地名ではっきりと記し、モンゴル人達に知らしめて欲しい。このため、後世の学者達がここに記すことができる場所を空けておくとしよう。書写の際にも、このように空白を設けておいて欲しい。いつ何時見つかるか定かではないが、北部、南部といわずモンゴル全土の皆で探すべきである。以下、数行の空白。
さて、太祖を岩山のボロル泉の水で洗い清めてみると、太祖は両手にそれぞれ羊のくるぶしの骨ほどもあるノジを握って生まれてきたという。(著者が調べたところ)石のような血の塊をノジと呼ぶそうだ。侍女たちは、急いで営地まで戻ると赤いフェルトを敷きつめた御車を運んできて、お后を連れ帰ろうとした。するとその途中、一人の人が御車の前に立ちはだかった。懐には玉のようで、花のごとき3~4歳ほどの男の子を抱いたその人は、驚いてこう言った。
「ああ、なんと、聖なる天子は確かにここにおいでだ」
この人物は誰かといえば、現在の東トゥメドおよびハラチン三旗の先祖に当たるジェルメの父親ウリヤンハン部族の人で、名をジャルチゴダイといった。生まれながらにして聡明で、物事をよく占い、左の眼には黒目が二つあった。どんなことを占うにつけても神の御宣託のようだったので、あちこちに頼まれて呼ばれては、土地の良し悪し、遊牧のやり方、子供たちの運勢、家畜、特に馬の状態などを占っていた。
この人は中年になってからやっと子供に恵まれた。ある朝のことである。(ジャルチゴダイは)金色の鞍と轡をつけた馬を夢に見た。馬は口に鞍をくわえたまま疾走して中に入ってくると、鞍を目の前に置いた。これはきっと鞍をつけて欲しがっているのだろうと思い、鞍をつけてやって腹帯を締めようとしたところ、準備はすべて整っていたのに、ただ腹帯だけが不足していた。
ふと見ると、彼の妻のオラン・ヒスグがヒョウの筋で作ったジリム(鞍の左側の革紐)を腰に締めている。急いでそれをとって鞍に結びつけて腹帯を締めると、馬の金色のたてがみと尾からは火が立ち上がり、一匹の火龍に姿を変えた。そして彼の家の全部を取っていこうとしたので、恐ろしさに目を覚ますと、その直後に妻のオラン・ヒスグがこの男の子を産んだので、この子はきっと将来大物になるに違いないと思い、夢にちなんでジェルメと名付け、あちこちに呼ばれて行くときには、すぐ近くであっても必ず抱いて連れて行くのだった。
この日は、いつのまにかバルゴー・ホローまで足を伸ばしていた。白い光が立ち上ってオノン河が澄んでいるのを見て、光の正体をつきとめようと進んでいったところ、オヘルン・ウジンに出会ったのだが、太祖を一目見るなり、声を失ってしまった。そして、オヘルン・ウジンに付き従いながらこう述べた。
「この人はただのお方ではありません。他の子供と同じように床や地面に横たえて育ててはなりません。確かな天の庇護を受けた星の下のお生まれです。奥まった場所でお育てして、穢れさせるようなことがあってはなりません」
そこで母なるオヘルンは、どのようにして奥まった場所でお育てすればよいのかと訊ねると、ジャルチゴダイはちょっと考えてから、それは簡単なことだといって、
「野原に生えている太い柳の木を、アルガリを燃やした火で折り曲げてかじ棒のようにして、さらに細かく曲げ、きれいに環状に形を整えて先の部分を覆うのです。夏の暑い時期にはそれを吊るしてお育てし、冬の寒い時期には中に包み込んでお乳をお与えなさい。極めて徳の高い方をお育てするものなので、ウルゲイと名付けましょう。非常に徳のある方をお育てすることにちなんで、こう名付けたのです」と述べた。
ウルゲイというものはこうしてできたのだ。後世の人々は皆、このようにお育てしたから大物になったのだとか、中に入れてお育てしたからハーンになったのだといって真似したので、現在に至るまでこのような習慣として伝えられている。
そのウルゲイの上には真っ白な羊の毛皮で袋を作って吊るし、中を南方の九種の穀物で満たして、九種の絹で環を覆い、三日目になってからウルゲイからお出しして、九つの泉の九種の水で再び洗い清め、九頭の雌馬の乳を振りかけてから再びウルゲイにお入れした。ジャルチゴダイは、九種類の飲み物、バター、ヨーグルト、クリームを使って祝福しながら祝詞を奏上した。
ウルゲイの無比なるに身を横たえ 向かうところ敵無しの天の御子 柳の木より作りたるウルゲイより 聖なる人の末裔は絶えて穢れず 玉のごとく素晴らしきウルゲイに 横たわれる王の御子は後の世に 王位に就かれて民を愉しませむ
そしてさらに、オヘルンに向かってこのように奏上した。
息子ジェルメを献上し
聖なる方の家臣とせむ
愛しの我が子も行く末は
僕となりて仕えんことを
するとオヘルンは、「まだ幼すぎるではないですか。育てるのが大変です。もっと成長してから連れてきてくれれば、大臣にしてあげましょう」といって、三日間宴会を催し、宴席では敬意を表してジャルチゴダイを一番の上座に座らせ、宝物を褒美として与えて帰らせた。
その頃、イェスゲイ・バートルはタタルの軍勢と戦って勝利をおさめていた。タタル族の首領タラムを生け捕りにし、帰り道にはテメーチン部族を討ったので、喜び勇んでバルゴー・ホローに戻ってくると、折りしも太祖は生誕から一ヶ月を迎えていた。
太祖を一目見ると、真っ白なヨーグルト振りかけたように輝き、バターを振りかけたように滋味のあるお姿である。しかも、頭はがっしりと大きく、顔は角ばっていて、光り輝くような素晴らしさだ。
イェスゲイ・バートルは嬉しさを隠しきれず、「この息子が生まれたとき、ちょうど敵を討ったのだ。しかも手に血の塊を握って生まれたというではないか。きっと将来は偉業を成し遂げるような男に成長するに違いない。タタルに勝利して、テメーチンを討ったのも天の思し召しに違いない」といって、テムジンと名付けられた。聖なる太祖は、このように天の定めによってテムジンという幼名を授かったのである。
光陰は矢のごとくして、歳月は飛ぶように流れ去った。いつしか、太祖は9歳になり、その下には4人の弟と1人の妹が生まれていた。
ある日、イェスゲイ・バートルが狩りに行って帰ってきたときのこと。ふと太祖を見ると、まるで神の化身のように威光を発していた。
何人かの子供たちを従え、大きな松の木の下の盛り土のところで木の枝に跨って、お馬ごっこをしている。手には柳の枝を持ち、妃をもらうぞ、皇帝になるぞなどといって遊んでいるではないか。イェスゲイ・バートルは、そろそろ息子のために嫁を探しにいかなければならないとお考えになった。そこで、オヘルン后の里のオルクヌウドにちょうどよい女の子がいると耳にしたので、太祖を馬に乗せ、お供として何十人かを馬に乗せて連れ、太祖の叔父方の人々が住む土地へと出かけた。
その途中、ホンギラト部族の土地を通り過ぎようとしたところ、ホンギラト族の首領のデイ・セチェンがアジナイ・メルゲンとホダルガ・バートルという2人の息子を連れて、馬に乗って山際を進んでいくところに出会った。彼らとイェスゲイ・バートルは対面したため、ほぼ同時に馬から降りて互いにお辞儀をし、デイ・セチェンはこう訊ねた。
「勇者よ、どちらにおいでになられる」 「私はこの息子の叔父方から嫁をもらおうと、オルクヌウドの土地へ向かおうとしているところです」
と、イェスゲイ・バートルは答えた。
デイ・セチェンは太祖を拝見するなり、驚愕して声を失った。そのご様子をよく見ると、十五夜の月のごとく玉のような白いお顔で、眼は輝く水晶のようで、両眉毛は唐の鳳凰のごとく、鼻はハイルハン山のように高く、唇はオヨーギン・ボルダク山のように豊かで、顔は角ばっていて背が高く、耳は大きくて、胸板も厚く、その周囲十歩以上は神々しさに満ち溢れ、一国の帝王ともなり得べき素質を備えておられた。
(デイ・セチェンは)このことを見定めると、慌てて微笑みながらこう言った。
「昨晩、私の夢の中に真っ白な大きな鷹が出てきて、口に紅日草をくわえ、私の幕舎の天井の上に止まりました。そこで今朝、占いをしてみたところ、高貴な王族のかたが我が家においでになるという結果でした。だから、その占いの示す方向に向かって、こうして迎えにやってきたというわけです。きっとあなた様のことに違いありません。私の家には、ボルテグルチンという名のかわいらしい女の子がいます。生まれたとき、覆っていたフェルトを透かして光が入ってきたのでこう名付けたのです。ちょうど9歳になります。どうか、まずは家にきてご覧になりませんか。子供たちは二人ともまだ幼いですが、背が高くて、まるで12~13歳の子供のようです」
そうして、イェスゲイ・バートルの一行を家に招いてもてなしたのである。
まず、ボルテグルチンがいつ生まれたか訊ねてみると、太祖と同じ日ではあったが、時刻が異なり、太祖が壬午年の四月十六日の午の刻に生まれたのに対し、ボルテグルチンは真夜中の子の刻に生まれたとのことだった。生まれたときには、何層にもフェルトを重ねた幕舎を透かすようにして、灯明のような赤い光が射し込んだのを皆が目にしたことから、覆っているフェルトを透かして輝くという意味のボルテグルチンという名前が付けられた。
北方の地では、将棋とヤトガ(モンゴル琴)を家中でたしなむ習慣があったが、デイ・セチェンはこの子が非凡かつ聡明で、朝日のように美しかったので、特にかわいがって、ヤトガの演奏を教えていた。
デイ・セチェンがイェスゲイ・バートルを家に招いてもてなそうと、ちょうど中に入ろうとしたところ、ヤトガを弾く音が聴こえてきた。そこでデイ・セチェンは家の奥に向かってボルテグルチンと呼んだところ、ヤトガの音は止み、女の子が「はい」と言って迎えに出てきた。その声は、金竹の音のように澄んだ声だった。
イェスゲイ・バートルが女の子をよく見ると、朝日のようにさえわたる美しさで、眼は鳳凰の眼のごとく、雲ひとつない晴天のような眉毛で、長く揃った耳と美しい鼻、珊瑚で飾られた翡翠のような唇で、目は火が燃え盛るようで、顔中が光り輝いていた。しかも、腰は細くて背は高く、見れば見るほど、実に九天の化身のような娘である。じっくり観察すると、将来は三宮を掌握する后となるべき運勢の持ち主であると知れたので、心中嬉しさ一杯になり、そうとは悟られないようにしながら、さらにじっくりと様子をうかがうのだった。
太祖とボルテグルチンは、顔を合わせるやいなや、昔からの知り合いのように打ち解けて仲良くなった。イェスゲイ・バートルとデイ・セチェンはそれぞれ自分の息子と娘をそばに立たせて、向かい合って酒を酌み交わした。デイ・セチェンが言うには、
「我が部族は昔から、見目麗しい娘たちを后妃として、誠実なるボルジギド部族に嫁がせて参りました。常に怜悧な娘たちを后妃として、ボルジギド部族に嫁がせるのが、古くからの慣わしだったのです。私の娘はあなた様のご子息と見合いの組み合わせではありませんか」
しかし、イェスゲイ・バートルは息子にも意向を訊ねようと思い、二人ともまだ幼いので、もうちょっと様子をみてから決めたいなどといってちょっと言葉を濁したところ、太祖は間髪を入れず進み出て跪くとこう言った。
「(この話は)まことにけっこうなことございます。ぜひ成就させてください」
イェスゲイ・バートルはこれを聞いてたいそう喜び、まさに天の定めに違いないといってお酌をし、携えてきたホルツ酒(二回蒸留したミルク・ウォッカ)を勧め、羊や果実酒を差し上げて、(デイ・セチェンの幕舎の)カマドの火にお供えし、九つの贈り物を二組として(十八頭の)馬を差し上げ、太祖にデイ・セチェンに向かってお辞儀をさせて縁組を行い、丸一日祝宴をもうけた。
さて、イェスゲイ・バートルが暇乞いをすると、デイ・セチェンは、「ご子息をみるにつけ、非凡さが感じられます。姿かたちといい、実に素晴らしい子供です。私から学問をお授けしようと思いますが、いかがでしょうか」と申し出た。
イェスゲイ・バートルはこれを承諾し、太祖を義父のもとに預けて帰途についたのだった。
帰り道、タタール部族の者たちが住む土地に差し掛かった。戦の際に、イェスゲイ・バートルが情けをかけたために生き残った人々だった。そこを通ろうとすると、タタールの残党が集まってゆく手を阻み、「私達を生かしてくださったご恩は忘れません」といって招き入れた。イェスゲイ・バートルは断りきれず、お酌をしてもてなされるが、お酒に盛られていた毒に当たってしまう。
事態に気づいた彼はひどく怒って、そばにいた(タタールの)五人のうちの四人をぱったばったとなぎ倒し、さらに遠巻きにしていた人々もやっつけると、馬に飛び乗って疾走し、バルゴ・ホローにたどり着いた。そして、幕舎を目前にしたところで馬からころがり落ちた。
イェスゲイ・バートルは、お供の者たちに抱きかかえられるようにして幕舎の中に入った。オヘルンはたいそう驚き恐れ、訳を尋ねた。それに答えて、
邪悪なるタタールは
懇ろにもてなすも
酒杯には毒混ぜて
我が命を狙わんとす
そして、「誰か近くにおらぬか」というと、ホンコタンのムンリグが「ここにおります。私です」と名乗りをあげて御前に近寄った。
「テムジンをホンギラト族のデイ・セチェンのもとに、婿として残してきたのだが、その帰り道、タタールの者どもに毒をもられてしまった。胸がむかついて気持ちが悪い。愛しの我が子を連れ戻してきておくれ。早く!」
イェスゲイ・バートルは、こう命じるなり倒れ伏せた。
オヘルンはとり急ぎ、ホンコタンのムンリグに命じ、太祖を迎えに行かせた。危篤の知らせを耳にした太祖は慌て急ぎ、夜を徹して早馬を乗り継いで帰り来たが、イェスゲイ・バートルはすでに事切れた後だった。イェスゲイ・バートルは享年33歳、オヘルン・ウジンが27歳のときのことである。
太祖は亡くなった伏した父親を一目見ると、取り乱して地に伏せ、悲しみのあまり大声で泣き叫んだ。
慈悲深き父上よ
不肖の息子がために
命を落とされり
精悍たる父上よ
弱小なる息子がために
敵の奸略にはまりたり
母なるオヘルンは、嘆き悲しんで泣いた末に、(太祖の)4人の息子に事態を告げにいった。
イェスゲイ・バートルには5人の息子があった。長男は太祖テムジンすなわち聖なるチンギスである。次男はブフ・ベルグテイといい、刀や石に当たっても無事なことからこう呼ばれていた。三男はハブト・ハサルといい、矢を射れば必ず命中したことからこう呼ばれた。四男はオイト・オチグといい、現在ではオイト・ワジルと呼ばれることが多い。東西オンニュード旗は彼の子孫である。目で見たことや耳で聞いたことをけっして忘れないので、オイト・オチグと呼ばれたのだ。五男はオラン・ガツォグといい、絵画や彫刻に才長けていたのでこう呼ばれた。また、娘もいた。輝くように色白で美しかったのでトヌメル・デジといい、一番末の妹だった。
ブェト国が国を挙げて喪に服し、悲しみにくれたのは語るべくもない。まだこの頃は兄弟揃って皆幼かったので、従属していた部族の多くは、タイチウド部族のほうが勢力があるといって逃げ出し、太祖の側近として仕えていたホルジという者までも離反してしまった。
太祖は彼を追い、袖を引っ張って涙ながらに懇願したが、ホルジは「深い湖の水は乾き、頑丈な岩肌も粉みじんになりました。それなのに、いまさら私の袖元にすがりついてどうしようというのです」といって、(テムジンの)手を振り払い、先を争うようにして逃げていった。後にテムジンはこのホルジを捕らえ、八つ裂きにして殺してしまったという。
また、チャイルチという部族にウニ、ウンドルという兄弟がいた。兄のウニは部族の中の誰よりも先に離反しようとしたので、弟のウンドルが説得したが、兄のほうはどんなに説得しても聞き入れず、結局、弟のほうだけが留まった。さらに、ウネンという者が一族をあげて誓いを立て付き従ったので、太祖はたいそう喜ばれ、彼らをウンドル・セツェン、ウネン・トゥルと呼んで重用した。
こうして逃げだそうとする者たちの数は次第に増えていった。だが太祖が13歳になったとき、兵馬を一堂に集めて、オヘルンもそれに加勢し、逃走者たちを一斉に懲罰しため、ようやくブェト国はいくらか平静を取り戻した。
太祖たち兄弟はますます成長していった。しかし、あるとき、狩でしとめた鳥のことで行き違いがあって、ちょっとした争いごとになったので、母オヘルンはひどく心を痛めていた。
ある日のこと、(オヘルンは)子供たちを呼び集めてその場に立たせ、父親の遺した矢筒から5本の矢を抜きとった。「これをあなた方、5本一緒に握って折ってみなさい」と命じたが、誰にも折ることはできなかった。(そして今度は)束になっていた矢をばらにして一本ずつ折らせたところ、いともたやすく折ることができた。
そこでオヘルンは子供たちをこう諭した。
「いいですか、子供たち。同じ矢であっても、合わせれば強く、ばらばらにすれば弱くなります。これはあなた方5人も同じこと。今後、皆が力を合わせて仲良く暮らせば、さっきの束にした矢のように、決して敗れることはありません。もし仲たがいして別々に行動すれば、さっきの一本ずつにした矢のように、たった一人の敵にさえも敗れてしまうでしょう。みんなのお父様でさえも、単独で行動した末に、やられてしまったではないですか。残されたあなたたちは、そんなことにならないよう、夫に先立たれた私を苦しめないでください」
そう言いながらほろほろと涙をながしたので、太祖は心動かされ、自分のした過ちを認めて非常に後悔し、兄弟たちと仲直りしたので、オヘルンは安心した。その以降、(太祖は)弟たちに何か至らないことがあっても庇い、よく面倒をみるようになった。
太祖は13歳のときに一度、タタール部族に向けて兵を挙げているが、父の仇を取りきることは叶わなかった。そして何年もの間、復讐心を燃やし続けていたのだが、まだ幼い我が子を心配した母親は、厳しく言い含めて、兵馬の指揮をとる王者の印である剣も自らのもとに保管して隠し置いたので、太祖はそれらを思いのままにはできなかった。
ある日のこと。太祖はすでに16歳に達していたが、父親に危害を加えた仇であるオルドセン・オルゴルという者にいまだに亡き者にすることができず心中穏やかではなかった。
このため、狩に行くと言い訳をしてはこっそりと出掛けて、父親が生前所持していた剣を身に付け、神聖な淡黄色の馬に乗って弟たちや側近たちを従えて出陣した。ところが彼らは皆逃げ隠れてしまったので、馬の手綱を切り返してその住処を尋ね行くことになった。
北方の地では、昔から遊牧生活を送っていたので、決まった場所に生活していたわけではなく、行方を捜し出さなければならなかったのだ。
ジャライト部族のデルゲト・バヤンという土地の近くに着いてみると、丘の上には、色黒で目は星のように輝いてる少年がたった一人で座って鉄の棒を手にし、何千匹もの家畜を放牧しているのに出くわした。ちょっと見ると熊の子のごとくがっしりしており、年齢的には太祖より何歳か年下のようだったが、ずいぶんと貫禄がある。
太祖は少年の近くに寄ると、こうお叫びになった。
「おい、坊主!タタール部族がどこにいるか知らないか?」
すると少年はたいそう不服そうにちらと横目で見ると、だしぬけに起き上がるなり大声で叫んだ。
「なんたる口の聞き方だ。しかもそんなでかい態度で人にものを尋ねるとは、お前はいったい何様のつもりだ」
「私は天下無敵のエレヘ・バートルという者だ」
太祖は心中、少年の肝の太さに感服したものの、わざとこう言い放ち、自分の親指をつきだしてみせた。すると少年は、手にしていた鉄の棒をその場に突き刺さすと、図太い声でこう言った。
「それならお前、馬から降りて、俺にかかってこい。もしお前が言うとおり本当に勝てるものなら、タタールたちがどこに行ったか教えてやる!」
太祖はどうせ小さな子供だと軽く考え、馬から飛び降りて宝剣を置き、取っ組み合いを始めたところ、少年の手足は風や火のごとく俊敏に動いた。
太祖はこれでは、早いとこ少年を打ち負かしてしまわなければ、不意打ちをくらって負けてしまうだろうと思い、何歩か後ずさりをした。そして一挙に渾身の力をこめ、つかみかかって押さえつけると、少年はまるで鬼にでも打たれたかのように足を折り曲げて、膝を地面について倒れこんだ。
太祖はつかんでいた手を離して後ずさりすると、高らかに笑った。
「それみたことか。さあ、起きてタタールの居所を教えるんだ!」
すると少年は地面に跪いたまま、大きな声で言った。
「生まれてから一度も人に負けたことがなかったのに。この俺は不敵のムカリと呼ばれていたんだ。それなのに、今日という日は、こんな怪力の持ち主にやられてしまって。お前さんはただの人じゃないな。正体を明かして、名前を教えてくれ!」
そこで太祖が自分の身分を明かして本当のことを話すと、ムカリはたいそう喜び、なおも跪いたままで答えた。
「徳高きボルジキトの生まれ、テムジンが神の子だとは聞いていましたけど、まったくですね!俺は子分になりますから、どうか馬頭にでもしてください。一所懸命やりますから、偉業を成される手助けをさせてください。俺はジャライド部族のデルゲト・バヤンの先妻から生まれた長男で、家には継母から生まれたダイン・サンという弟がいます。」
ムカリというのは、何をするにも際限をきわめる(モホガン)までやるからそのように名付けられたのであった。ダイン・サンという弟は、父親が戦に行った際、敵方の倉庫からたくさん略奪してきたときに生まれたことにちなんで名付けられたのである。
中国の『資治通鑑綱目』には、ムカリの名は漢字で「木華黎」、ダイン・サンの名は「代松」と書き記されている。
「弟は父と一緒に家で仕事をしています。私は一人、この棒を手にご主人様のお供をして、偉業を成し遂げるためお力になりましょう。父は去年からずっと、私を遣わしてあなた様についていくようにと言っていたのです。私には一筋の髪の毛ほども後ろ髪を引くものはありません。どうか私を家来にしてください」
(ムカリが)こう言ったので、太祖は非常に喜ばれ、あわてて両手で抱き起こした。そして、改めてタタール部族の行方を尋ねると、ムカリはそれに答えて、
「ここから東北の方角にサーラル平原というところで、遊牧をしているタタールのオルゴルという者がいます。他の世帯から離れて、彼ら家族だけが独り移住して、サーラル平原に住みついているのです」
太祖は喜び勇んで、「ムカリ、お前はここで待っていてくれ。私はすぐ戻ってくる」と言うと馬に飛び乗って、剣を身につけ、サーラル平原の方をめざし疾走した。(サーラル平原)にたどり着くと、オルゴルは狩に出かけており、家には女子供だけが残されていた。
太祖は馬を戸口の近くに繋ぐと、道を尋ねるふりをして中に入った。オルゴルの2人の妻は、太祖の様子があまりにも輝かしくて立派なのに驚かされた。
若い方の妻は客人にチーズをお出ししようと取りにいったのだが、(太祖は)その隙に剣を抜いて年上のほうの妻を一打ちして真っ二つにしてしまった。
外に出てみると、若い方の妻が片手にはチーズを盛った盆を持ち、もう片手には木の椀に乳茶を持って、戸口のところに立っていた。そしてにこにこしながら、「お客さん、まだ何もお飲みになっていないじゃないですか。どこに行かれるんです?」と言った。
太祖が「お前の旦那を殺しに行くんだ」といって斬りつけると、乳茶とチーズは地面に散らばってこぼれた。
太祖は再び中に戻ると、そこには女中がいて、たいそう怯えた様子で「人殺し!」と叫んだので、首を討ちはねて口を封じてしまった。
オルゴルの子供たち2人は家の裏で遊んでいたが、叫び声を聞きつけると、急いでやってきた。太祖は彼らもまた一人ずつ斬り殺し、もう探しても誰もいなくなったので、全員の生首を台の上に並べ置いた。
そうして馬に乗って戻ってくる途中、一人の老人が乾いた牛糞を拾い集めているのに出会ったので、太祖は馬を止めて訊ねた。
「おじいさん、あなたはオルゴル家の人ではないですよね」 「そうですよ」
そこで太祖はこう言った。
「何を隠そう、私はボルジギド族のテムジンという者。タタールのオルゴルによって我が父は毒を盛られたため、仇を討ちに参った。ところが、オルゴルは留守だったので、彼の妻子を皆殺しにしてやった。しかし、あなたは年を取っているから命だけは助けてやろう。オルゴルが帰ってきたら、私がこう言っていたとお伝えなさい。『戦えるものなら、後から追いかけてこい!』とね」
そう言い終えるやいなや、風を切って馬を疾走させると、(太祖は)いつのまにか丘のところまでたどり着いていた。
ムカリはというと、いったん帰宅して一部始終を説明し、弟を説得して家畜の番人にもよく言って聞かせ、身の回りの品と鉄の棒を持ってきた。そして、その場に立ったまま待っていたのだった。
しかし馬には乗っていなかったので、太祖が訳をたずねると、彼は笑いながらこう言った。
「能ある男は甲冑なしでも敵を倒し、志ある男は裸一貫で大業を成しとげるといいます。馬の良し悪しは鞍で決まるわけではなく、美女の美しさも衣服で決まるわけではありません。生まれ落ちときから裸だったこの身体、ご主人様にお仕えしようというのに、どうして馬の必要がありましょう」
太祖は、彼のいうことにはたしかに一理あると思って大いに喜び、馬に2人乗りさせようとしたところ、
「二本の足があるのに、(そんなことをしたら)聖なる主に対して失礼に当たります」と断った。
太祖は彼が一筋縄では行かないのを見てとり、またその気持ちを汲もうとして、(自らも)馬には乗らず、彼と一緒になって徒歩で二里ほどの距離を歩いた。ムカリは、主人が馬にお乗りになるように何度も何度もお願いしたが、太祖は承知しなかった。ムカリはいたく感動し、引き綱をつかんで道端に跪いて涙ながらに語った。
「私ごときと一緒に二里もお歩きくださったからには、ご主人様の世が二千年も続き栄えますように。七度も馬にお乗りになるようにお願いしたのに、すべてお断りになるとは。ご主人様の世が七度栄えますように。ご主人様、さあ、馬にお乗りください」
そうして太祖を無理やり馬に乗せると、ムカリは馬の前を徒歩で歩いた。(彼らが)バルゴー・ホローにたどり着くと、宴を催してムカリを丁重にもてなした。
さて、タタールの軍勢が報復にやってくるやもしれないと思い、それに備えていたのだが、案の定、太鼓とラッパを大音響で鳴らしながら一隊の兵馬が到来し、バルゴー・ホローを包囲してしまった。兵隊たちは、ただテムジンを出せと大声で叫んだ。
オロゴルは帰宅した際、妻子たちの生首が並べられていたのを見て猛烈に怒り、タタールの首領に援軍を頼みに行こうとした。だが、そもそも彼らといさかいを起こして抜けてきたので(頼みづらく)、代わりにタイチウド部族のもとを訪れ、チルゲル・ブフ、タハルの2人に自らの苦境を訴えて援軍を頼んだのである。
チルゲル・ブフは、部族のものたちと相談し、
「以前、イェスゲイ・バートルは我々を蹂躙したことがある。その年、彼の妻のオヘルンも我々のところに降った属民たちに向け兵を挙げ、我々も被害を被ったのだ。いまや彼の子供を襲い、その恨みを晴らすときがきた!」と言って、一千の兵を選り揃え、バルゴー・ホローを攻めにきた。
太祖は知らせを受けるや鎧兜を身につけ、弟のブフ・ベルグテイ、ハブト・ハサルを連れ、ホンコタンのムンリク、ジャライドのムカリらは準備の整った五百の兵を率いて迎え撃つ態勢に入った。
すると、オロゴルは大声で言い放った。
「こしゃくなテムジンめ。なぜ私の妻子を殺した。以前、私はお前の父親を殺したが、今度は母親を殺してくれようぞ!」
太祖はこれを聞いて猛然と怒り、目から火花を散らし、雷のごとく叫び声を上げて、淡黄色の馬を疾走させてオロゴルを探して敵中におどりこんだ。弟のベレクデイらの4人も、同時に打ち殺しながら進み、双方は討ちつ討たれつの大合戦になる。
しかし、なんといっても多勢に無勢、さらにタイチウド勢は生え抜きの兵馬で、ブェト国側は次第に合戦を続けるのが困難となり、軍営を護るだけで精一杯の状態だった。
太祖は単身でオロゴルの前に躍り出て、死に物狂いで戦ったので、オロゴルは太祖にはとてもかなわないと馬首を返して逃げだした。
太祖は歯をくいしばってこれを必死で追ったが、タイチュウドが道を遮るように木の根っこに張らせた縄に馬の脚を取られて倒れてしまう。すると、葦の中に隠れていた兵が一斉に掛け鉤を手にして現れ、太祖を捕えてしまった。
タイチュウド勢のチルゲル・ブフ、タハル、タルブタイらは、鐘を打ち鳴らして兵を集めると、太祖に足枷をはめ、オロゴルはこれを殺せと命じた。そこでチルゲル・ブフがすぐさま殺そうとしたところ、タイチュウドのもとで暮らしていたスルタン人のトルガン・シラという者が慌てて進み出てくるとこう言った。
「なりません、なりません。ブェト国のテムジンを捕まえることができたといっても、ブェト国は二十何代も続いてきた強国です。さらにまだ、テムジンの弟たちや大臣をはじめ、何万という属民たち、文人、親戚、婚戚等々、膨大な数の人々が控えています。この度はたまたま不意打ちをくらって破れたにすぎません。もしここでテムジンを殺せば、大きな災いが降りかかるに違いありません。まず彼を拘束しておいて、その弟たちも捕らえ、国を滅ぼしてから殺すのです。そうすれば、災いを逃れることができるでしょう」
タイチウドの首領チルゲル・ブフおよびタハルらは、トルガン・シラの言うことはもっともだと思ってただちにこれを承諾し、テムジンを厳重に監視し、人質とするよう臣下に命じた。だが、オロゴルはこれには不満であった。
タイチウドは敵をやっつけたといって大喜びし、3日にわたって盛大な宴を催した。太祖の曽祖父に当たるハバル・ハン、祖父のバルダン・バートル、父親のイェスゲイ・バートルと三代続く戦いを続けてきたが、今日こそは恨みを晴らすことができたといって、皆はまるで海や湖のごとく溢れんばかりに大酒を飲み、太祖を監視していた者たちも、さまざまな罵詈雑言を投げつけた。
ゆっくり眠ることすらできなかったので、太祖はたいそうお怒りになった。さらに深夜には、オロゴルも酔っ払って太祖を殺そうと待ち構えていた。太祖はあまりのことに堪りかね、「父なる天よ!」と一声叫ぶと、手枷をぐいと捻り、両足で足枷を蹴飛ばすと、その身体は真っ赤に光り輝き、足枷は断ち割られてしまった。
さらに大きな叫び声をあげ、監視をしていた者の頭に手枷を振り下ろし、逃げ出そうとしたところ、もう一人の監視者が大きな声で叫びながら追いかけてきたので、太祖は右足を振り上げて足枷で蹴り倒し、もう片方の手にはまった手枷で頭に一撃を加えたところ、砕けた頭から脳みそと血が溢れて流れ出た。
この騒ぎを聞きつけ、番をしていた者たちが駆けつけてきたが、太祖を探してもすでに姿はなく、数百人の人々が四方八方行方を捜しに出かけた。
さて、トルガン・シラが宴を終えて家に帰ってきたところ、草の生い茂った湖面に赤い光が輝いているのが見えた。そこで手綱を返してもとの道を引き返すと、太祖が水の中から頭を出し、衣服の上には鎖を身に纏ったまま横たわっていた。
トルガン・シラは心中、聞くところによると、夢の中で懐妊してお生まれになった天の子テムジンが、こうして生きておいでになるのは、実にもっともなことだ。私はこの方をお助けせねばなるまいと考えて、小さな声でささやいた。
「なんとまあ、汝は強いことよ。さあ、早く国に帰りなさい。捜しに来た兵隊たちはもう行ってしまったし、私は密告なぞしませんから。ただし後々まで、トルガン・シラという私の名を心に刻んでおきなさい」
そう言うと、また手綱を返してもとの道へ帰っていった。
しかし太祖は、もし今夜国に帰ろうとしても、追っ手の兵から逃れるのは困難だと考え、トルガン・シラが馬に乗っていった道をついて彼の家までたどり着いた。トルガン・シラはこれを見て大いに驚き、眉毛をひそめるとこう言った。
「ああ、さっき早く国に帰れと言ったのに、なぜここに来た。もし彼らに見つかったら、私たち家族は皆殺しにされてしまうではないか!」
すると長男のチョローンは、太祖が天から遣わされた者のごとき威光を発し、堂々として立派なのを見て心動かされ、父親に向かってこう言った。
「傷ついた小鳥を追い出すようなことをするとは。ボルジギドの血筋を引く天の御子、テムジンに対して帰れとは何事です」
そして、濡れた衣服を乾かし、絡まっていた鎖を斧で断ち切って、食事をさせて家に泊まらせた。
翌朝、大きな声がするのでみると、オロゴルが二、三十人の兵隊を連れてそれぞれ武器を手にしてやってきた。トルガン・シラは真っ青になり、慌てて太祖を荷車に入れて隠すと、上から羊の毛を積み上げた。いくらも経たないうちに、オロゴルたちは他の家を捜し終えてトルガン・シラの家に入ってきた。彼らは家の内外を懸命に探したが見つからなかったので、ついには羊の毛を摘んだ荷車のところまで捜しにやってきた。
さて、この続きはいかに。この先どうなったか、賢明な読者の皆様は早く知りたいとお思いでしょうが、ひとまず私は、ちょっと庭に出て花々を眺め、小鳥の声を聞いてから、次の章を書くことと致しましょう。(訳注:第一章完)
宋朝第十代皇帝紹興三十二年、壬午年、金朝第五代皇帝世宗大定二年、聖武皇帝チンギス・ハーンが誕生したときの出来事である。銘記されかし。
1 コメント:
Мөн ч нөр их хөдөлмөр байна даа. 素晴らしいです。
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